yukawa Hideki 1907- 1981
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湯川秀樹博士は、日本人初のノーベル物理学賞を受賞した人物。 1929年、京都帝国大学理学部物理学科を卒業し、無給副手として玉城嘉十郎研究室に所属。1933年、大阪帝国大学理学部講師となり1935年、中間子論の英文第1報を雑誌に発表。1936年に助教授、1939年から京都帝国大学教授。その年ソルヴェイ会議に出席すべく渡欧したが、第二次世界大戦勃発のため帰国。1948年、招かれてプリンストン高等研究所客員教授となる。1949年、ノーベル物理学賞を受賞、コロンビア大学客員教授を務める。1953年に帰国し、京都大学基礎物理学研究所所長に就任。1955年、「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名、世界平和アピール七人委員会を結成。日本物理学会会長を1年間務める。1970年、京都大学を停年で退職する。 著書『目に見えないもの』『素粒子論序説』『現代科学と人間』『旅人』ほか。 |
ある日──私が五つか六つの時だったろう──父は祖父に、 「そろそろ秀樹に、漢籍の素読をはじめて下さい」 と言った。 その日から私は子供らしい夢の世界をすてて、むずかしい漢字のならんだ古色蒼然たる書物の中に残っている、二千数百年前の古典の世界へ入ってゆくことになった。 --------- 一口に四書、五経というが、四書は「大学」から始まる。私が一番初めに習ったのも「大学」であった。 「論語」や「孟子」も、もちろん初めのうちであった。が、そのどれもこれも学齢前の子供にとっては、全く手がかりのない岸壁であった。 まだ見たこともない漢字の群は、一字一字が未知の世界を持っていた。それが積み重なって一行を作り、その何行かがページを埋めている。 するとその1ページは、少年の私にとっては怖ろしく硬い壁になるのだった。まるで巨大な岩山であった。 「ひらけ、ごま!」 と、じゅもんを唱えて見ても、全く微動もしない非情な岸壁であった。夜ごと、三十分か一時間ずつは、必ずこの壁と向いあわなければならなかった。 祖父は机の向う側から、一尺を越える「字突き」の棒をさし出す。棒の先が一字一字を追って、 「子、曰く……」 私は祖父の声につれて、音読する。 「シ、ノタマワク……」 素読である。けれども、祖父の手にある字突き棒さえ、時には不思議な恐怖心を呼び起こすのであった。 暗やみの中を、手さぐりではいまわっているようなものであった。手に触れるものは、えたいが知れなかった。緊張がつづけば、疲労が来た。 すると、昼間の疲れが、呼びさまされるのである。不意に睡魔におそわれ、不思議な快い状態におちることがある。 と、祖父の字突き棒が本の一か所を鋭くたたいたりしていた。私はあらゆる神経を、あわててその一点に集中しなければならない。 辛かった。逃れたくもあった。 けれども時によると、私の気持ちは目の前の書物をはなれて、自由な飛翔をはじめることもあった。そんな時、私の声は、機械的に祖父の声を追っているだけだった。 --------- 私はこのころの漢籍の素読を、決してむだだとは思っていない。戦後の日本には、当用漢字というものが生まれた。子供の頭脳の負担を 軽くするためには、たしかに有効であり、必要でもあろう。漢字をたくさんおぼえるための労力を他へ向ければ、それだけプラスになるにちがいない。しかし私の場合は、意味も分からずにはいっていった漢籍が、大きな収 穫をもたらしている。その後、大人の書物をよみ出す時に、文字に対する抵抗が全くなかった。漢字に慣れていたからである。慣れるということは怖ろしいことだ。ただ、祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に親しみ、その後の読書を容易にしてくれたのは事実である。 |